経済対策の柱として

定額給付金:独自商品券発行を計画 北海道の網走市など
 定額給付金の支給に合わせ地元の消費を拡大しようと、網走市は1万円で1万1000円分の買い物ができる市内限定の「プレミアム(割り増し)商品券」を発行する方針を決めた。給付金は貯蓄や市町村外での買い物に充てることも可能で「地域にお金が落ちない」との指摘があるため。十勝管内浦幌町も同様の商品券発行を検討しており、自治体独自の「囲い込み作戦」が広がる可能性もある。

 網走市の商品券は、市が1000円のプレミアム分を負担し、定額給付金の支給開始と同時に2万セットを発行する。4~5カ月の有効期限を設け、今後募集する市内の店舗に利用を限定することで集中的な消費を促す。総事業費は約2500万円の見込み。三島正昭商工労働課長は「給付金の支給だけでは消費に回らないことも予想されたので、地域で使ってもらえる方法を考えた」と話す。

 浦幌町は景気対策の一環で昨年12月、商工会と共同で1万円で1万1500円の買い物ができる商品券を発行したところ、3日間で3600セットを完売。「売り上げが2割増しになった」という商店も出るなど効果が大きかったため、給付金の支給に合わせて第2弾を計画している。

松江市は2月補正予算の経済対策の柱として、2割のプレミアム付き商品券を12億円分発行する。国が近く支給する定額給付金が貯金に回ることなく地元の小売店などで消費されるよう促す。補正予算額は約41億円で、9日に開会される臨時市議会に補正予算案を提出する。

 商品券は1万円分を購入すれば消費者は1万2000円分の買い物ができる。1人10万円分まで購入可能。3月下旬にも発売、使用期限は6月末の予定。プレミアム部分の費用2億円は市が負担する。現在、券の額面や発売場所を調整中。市内の小売店や飲食店、工務店など幅広い店舗で使えるようにしたい考え。

 補正予算では雇用創出に向けた対策として、介護職場の人材確保を支援するためにホームヘルパー2級の資格取得者に対し、資格取得費用の2分の1を新たに助成する。

 市の補正予算後の08年度一般会計総額は約982億円(前年度の補正予算後に比べ7.1%増)。今回、財源は国の2次補正予算に盛りこまれた交付金を充てる。

— posted by サイト管理者 at 05:04 pm  

ゼロ金利という状況を考えれば

資産運用にとっては試練の年になった2008年も、残すところ一週間となりました。試練とは、単に我慢することではなく、新たな発見や忘れかけていた初心を省みる機会であると、しみじみ感じています。

 11月は有名企業のレイオフや業績の下方修正など様々な悪材料によって市場ムードが悪化したことを考えれば、投資信託をすでに保有している方の対応は、模範的であると言えます。公募している追加型株式投資信託では、資金は157億円の流入に転じました。10月は3670億円の流出でしたから、大きな変化です。下がっている時に、不安になって、あわてて解約するという方が少ないこと、そしてインデックスファンドや配当株ファンドなどをコツコツ買う方がいることなどが、辛うじてではありますが、資金が流入に転じた理由となっています。大騒ぎしているマネー情報より、個人投資家の方が賢いというわけです。

 毎月チェックしている資金純増ファンド(追加型投資信託で月間の設定額合計から解約額合計を差し引いて、12か月間設定額の方が上回っているもの)の、11月末時点でのランキングでも、10月の34本から1本減少して33本となりましたが、この状況下では善戦と言えるのではないでしょうか。

全33ファンドの詳細なランキングをPDFで開く

あわてて解約してもお金の行き場はない
 上位を占めているのは、おなじみの定期分配型の外国債券型です。内外の金利差が縮小、反転しつつある中で「日本より金利の高い外国債券を買う」妙味は徐々に薄くなってきています。為替変動も大きく、円高がいつまで続くのか……と不安にもなります。為替の変動を時期・水準とも当てることは非常に困難であり、方向の見通しと言ってもプロの中にも「円高傾向が続く」という人も「やがては円安に転じる」という人もいます。どの程度の時間感覚で語っているかがポイントでもありますが、当面急激な円安に振れる可能性は少なそうです。

 そうした不確かな状況を当てようとするより、「為替は大きな波を描いて変動する」という常識に立ち返って考えた方がよいのではないでしょうか。つまり、まだ円高に振れることはあるにしても、中長期で見て現在は「円は高い水準」にあるということが重要でしょう。

 また、金利水準について考えるならば、現在の世界的な金融危機の中ではグローバルに金利が低下傾向にあることは間違いありせん。ということは、既に発行されている債券は、現在や近い将来よりも金利が高く設定されているわけです。こうした既発の、特に長期債を保有していれば……債券ファンドの中にはこうした状況のものもあります。あわてて解約しても、より良い条件のお金の置き場はなかなか無いでしょう。時価の変動が許容範囲内なら、継続保有をオススメするのはこうした理由からです。

 ただ、個人的には定期分配型のファンドは、分配金額を減らすという選択を真剣に検討すべき時期に来ていると思います。目先の分配金の減少は、メディアが騒ぐ好材料にもなりかねませんが、分配金を減らすことが投資家にとっても、ファンドにとっても、末永く安定的な運用を続けるために良い選択である、という可能性も十分にあります。そのことを、投資家と正面から向き合って説明していく労を惜しんではいけないと思います。

株式資産保有のメリット
 不況・株安の現在、株式資産についても、保有していると“どこまで下がるのだろうか、回復はするのだろうか”と不安になります。ここでも、株式市場の回復の時期や水準を当てるのは相当困難でしょう。例えば、バブル崩壊の直前には日経平均株価は38000円台まで上りましたが、当時の感覚を引きずっていたバブル崩壊直後には、「山高ければ谷深し。谷深ければ山また高し。回復後の日経平均は10万円台だ!」と言っていたプロも居たようです。

 ことほど左様に、「当てる」ことは難しい……。同様に、どの国が回復するか、どの業種が早く値上がりするか、なども自分なりに様々なシナリオを想像するのは大切ですが、「当て」に行くのは賢明なことでしょうか?

 現実的になるなら、やっぱり大きな波を観察するしかありません。後は、企業が価値を生み出す経済の在り方の存続を信じるか、疑うかで、判断は異なります。企業やそこに働く人々が私たちの暮らしに必要であり、役に立っていくと考えるなら、株式は保有する価値のある資産です。インデック・スファンドや積立購入できる直接販売のファンドに資金流入が続いているのは、こうした判断をする投資家の存在によるものでしょう。

 また、ほとんどゼロ金利という状況を考えれば、株式配当利回りが今後業績の悪化に伴って下がったとしても、株式の配当にもそれなりの魅力があります。もちろん、株価は変動しますし、元本を割る可能性もあります。そのリスクに対するリターンの一つが銀行金利や国債利回りより高い(はずの)配当利回りなのです。

積み立てで将来に備える
 今までリスク資産とは無縁だった方も、まだまだ大勢いらっしゃることでしょう。この金融危機を体験して、やっぱり怖いものだとお感じになられるかもしれません。その怖さは、よく覚えておく必要があります。なぜなら、市場が好調になると、ほとんどの人がその怖さを忘れて、自分の耐久力以上の投資をしてしまうからです。

 でも、現在リスク資産を保有していないのなら、今、怖がる必要はありません。状況が悪い時に始めるのは、勇気が必要ですが、将来の成功の確率を高くする良い方法だからです。でも、一度に退職金をつぎ込むとか、ボーナス全部で一種類の資産を買う、といった行動は控えましょう。

 まだまだ、市場の上下の変動(ボラティリティーと言います)は、株も為替も大きく、更に下げる局面も想定しなければなりません。でも、もっと下がるかも、と何もしないでいると、一生資産運用はできないかもしれませんね。

— posted by サイト管理者 at 06:49 pm  

相手の顔を見て信頼度を確認

現在の米国社会は、4つの異なる世代が積み重なってできていると言う。沈黙の世代、ベビーブーマー、X世代、Y世代の4つである。それぞれの世代の生まれた年と労働人口構成比を示すと次のようになる。

世代 生まれた年 労働人口構成比 沈黙の世代 1946年以前 7% ベビーブーマー 1946年―1964年 42% X世代 1965年―1977年 29% Y世代 1978年以降 22%     (生まれた年の期間は資料によって若干異なる)


それぞれの世代は、総じて次のような特徴を持っていると言われる。もちろん個々に見ていけば例外が存在するのも確かだが。


世代 特徴 沈黙の世代 勤勉、強い義務感、自己犠牲、黙々と仕事する ベビーブーマー 自己実現意欲、楽観的、要領が良い、消費優先 X世代 強い自立心、虚無感、斜に構える、責任回避 Y世代 過保護、高い情報能力、高学歴、自信過剰

ベビーブーマーが主役となっている今の社会も10年経つと構成割合が大きく変化する。沈黙の世代、ベビーブーマーといった「古い世代」がリタイアし、代わって、X世代、Y世代といった「新しい世代」が社会の中核を担う時代がやってくる。これによってアメリカ社会は大きく変貌すると言われている。


では新しい世代はどのような特徴を持っているのか詳しく見ていこう。まず、X世代は次のような環境で育ち、前の世代と大きく異なる特徴を持っている。


離婚が増加し、母親が働き始めたため幼年期に「鍵っ子」の生活を送った世代。将来に対する悲観的な見方を持ち、批判力が旺盛で、虚無感、疎外感を強く持つ。 ベビーブーマー世代の価値観の継承を拒否した世代。感動を表に現さない人が多いため、「分からない世代」という意味で「X世代」と名づけられた。 80年代に両親がレイオフされたり、安定した雇用関係があっという間に不安定になったりするのを観察して育った世代。 彼ら自身も90年代の後半から、アメリカの職場が賃金の安い海外に流失して失業し、フリーターのような仕事に従事せざるを得なかった人が多い。

これに対し、Y世代が育った環境は大きく異なる。 ベビーブーマーの親から大事に育てられた世代。過保護で甘やかされて育ったため、誰かが常にかばってくれると考えている。我儘な人が多い。 成長期にコンピュータが身近な道具になり、これでゲームし、仲間内でメール、IM、携帯でコミュニケーションをしてきた世代。 三分の二が大学に進学する高学歴集団。インターネットを使えば情報が自由に手に入ることを実感した世代。複数のことを同時にこなせる器用人で、自負心も強い。 心の底には不安が詰まっている世代。幼年期からオクラホマ市庁舎爆破、銃の乱射事件、セプテンバーイレブン、ハリケーンカテリーナ等の事件・災害を見てきた。

X世代とY世代では職場での対応姿勢に共通点がある。多くのレイオフや、M&Aに絡む人員整理をみて、もはや安定的な長期雇用関係を望むのは難しいと認識している点である。エンロン事件を経て、会社に対する猜疑心も大きい。そのため、会社に忠誠をつくすよりは、仕事本位で生きてゆきたいと願っている。


他方、相違点を見てみると、X世代が総じて自立心に富み、失敗しても立ち直りが早く、高い適応力を持っているのに対し、Y世代は総じて受け身で、反発力も弱く、仲間内に同調しながら生きるのが心地よいと感じている。問題が起きると自分だけで悩まないで、すぐに家族や仲間内に相談をする。Face-to-Faceのコミュニケーションよりは、メールでのさらっと意思疎通するほうを好む。


X世代が社会人となった80年代後半には、それ以前の世代との激しい確執があった。旧世代はX世代を、責任回避者・怠け者と呼び、X世代は旧世代を、自己中心的、気まぐれな偽善者、実践力のない拝金主義者と批判した。


Y世代が社会人となった2000年以降には、こうした感情的な反発は双方から見られない。ただ、仕事が分かっていないにも拘らず、一気に高いポジションを求めるY世代の「世間知らず」振りに、旧世代が辟易としている様子が伺われる。Face-to-Faceのコミュニケーションを重視しないことも旧世代は理解できない。会議の途中で突然姿を消してしまうこともあるという。


Y世代の6割が職場で何らかの摩擦を起こしているとの報告もある。X世代がY世代に反発するよりは、ベビーブーマーがY世代に反発する頻度が高い。これは家庭で起きていることの延長線上にある。ベビーブーマーがYの親の世代であるからだ。確執には至らないで、単なる摩擦で済んでいるのは、お互いに分かりあえる部分が多いからではないだろうか。


旧世代が新世代を引っ張っていくには、漠然とした愛社精神の植え付けでは無理がある。むしろプロジェクトベースで仕事を与え、素早く評価を還元することが、彼らのモティベーションを高く維持できる秘訣であるという。X世代を指導していくには仕事のやり方を大まかに示唆するほうが効果的であるのに対し、Y世代には「手取り足取り」でコーチングしてゆく必要があるとしている。


アメリカ社会では80年代後半から株主資本主義が定着し、雇用者は雇用の剥奪・不安定化と言う形で、労働者に大きな負担を強いてきた。労働者の多くは21世紀に入った現在でも、できることならあの幸せな時代に戻りたいと願っている。Y世代では、就職に当たって年金の充実している企業を選ぶ傾向があるという。親の言うことを良く聞くY世代では、親の安定化期待をそのまま反映して行動しているようである。


最近、Helicopter Parentsと言う言葉が出てきた。Y世代の親の中には、子供の就職に当たって、親が企業の人事部と直接交渉に乗り出すことが頻繁に見られるようになったと言う。彼らはヘリコプターのように常に自分の子供の頭上を旋回し、必要なときに着陸して子供を助けることから、Helicopter Parentsの呼び名が生まれた。


自立心旺盛といわれたアメリカ人も、Y世代では価値観が大きく変わってきているようである。現時点ではY世代が社会人になり始めたばかりであるが、総人口ではX世代の5100万人に対し、Y世代は7500万人と圧倒的に多い。これから2012年にかけてY世代の社会人は毎年10%増加する。労働人口でY世代がX世代を追い抜くのは時間の問題である。旧来の概念から見れば、「ひ弱」ともいえるY世代がやがて労働人口の最大グループになる。


では、Y世代主導のアメリカはどのように変わるのだろうか。たぶん優れたコミュニケーション能力を発揮して、今よりさらに早く意思決定をしていく社会に変貌していくだろう。会社に出勤しないで、自宅から通信回線を使って仕事をするのも一般化するだろう。企業内には互いに顔を知らない社員が溢れ、企業はますます仮想化していくだろう。


私にはいまでも、相手の顔を見て信頼度を確認しながらFace-to-Faceのコミュニケーションで仕事を進めるのが、ビジネスの基本のように思えるのだが。新しい社会は私の想像力の範囲を超えている。新しい社会についてこれ以上発言するのは止めよう。私は「沈黙の世代」の人間なのだから。

— posted by サイト管理者 at 02:29 pm  

防衛線を築いていながらも

[編集] 田原坂・吉次峠の戦い
3月1日から3月31日まで、現在の熊本県鹿本郡植木町大字豊岡で田原坂・吉次峠の激戦が繰り広げられた。春先で冷え込みが酷く、雨も降る厳しい状況の中で戦いは始まった。

官軍は田原坂防衛線突破のため、3月11日、軍を主力と別働隊に分けた。主力は田原坂・吉次峠の突破のために、別働隊は山鹿の桐野部隊の動きを封じ込むためにおかれた。しかし、主力軍は地形を存分に利用した薩軍の激しい銃撃と、抜刀白兵戦に手も足も出ず、田原坂の正面突破を諦めて、西側から攻めて横平山(那智山)を奪うことにした。

白兵抜刀攻撃に対抗するため、官軍は士族出身の兵卒を選び抜刀隊を組織したが、討ち破られたため、3月13日、新たに警視抜刀隊を組織した。3月14日、官軍は田原坂攻撃を開始したが、結局横平山を占領することはできなかった。しかし、警視抜刀隊が薩軍と対等に戦えることが分かった。のちにこの時の抜刀隊の功を称えて有名な抜刀隊の歌が作られた。

官軍は3月15日、薩軍の守備を破り、ついに横平山(那智山)を占領した。この日に初めて官軍は、薩軍の防衛線に割って入ることに成功したのである。3月16日は、戦線整理のために休戦した。3月17日、官軍は西側からと正面からの攻撃を開始した。しかし、地形を生かした薩軍にあと一歩及ばず、田原坂の防衛線を破ることは出来なかった。この間、3月4日からの官軍の戦死者は約2,000名、負傷者も2,000名にのぼった。

官軍主力隊本営では3月18日、野津鎮雄少将(第一旅団長)・三好重臣少将(第二旅団長)、参謀長野津道貫大佐、高瀬征討本営の大山巌少将などによって幕僚会議が開かれた。この会議は作戦立案と意思統一をするためにおこなわれた。これまでの戦いの中で、官軍は多大な兵力を注ぎながらも、一向に戦果が挙がらず、兵力のみが費やされてきた。この原因として挙げられるのは、薩軍が優れた兵を保持していることと、地の利を生かして田原坂の防衛線を築いているためである。現状を打開するには、いち早く田原坂の堅い防衛線突破する必要がある。しかし、兵の疲労を考慮し、19日は休養日として、20日早朝に二方面から総攻撃を決行する、と決めた。

20日早朝、官軍は開戦以来、最大の兵力を投入した。攻撃主力隊は豪雨と霧に紛れながら、二股から谷を越え、田原坂付近に接近した。そして雨の中、二股の横平山の砲兵陣地から田原坂一帯に未だかつてない大砲撃を開始した。砲撃が止むと同時に薩軍の出張本営七本のみに攻撃目標を絞り、一斉に突撃した。薩軍は官軍の猛砲撃と、断続的に降り注ぐ雨のため応戦が遅れ、七本では状況が把握できないまま攻撃を受けざるを得なかった。

薩軍は防衛線を築いていながらも、突然の攻撃のため徐々に応戦できなくなり、植木方面に敗走した。官軍の攻撃を成功に導いたのは別働の吉次峠部隊の活躍が大きい。吉次峠部隊は、薩軍に対して牽制攻撃を仕掛けた。これによって官軍主力は「田原坂突破」一本に的を絞ることが出来た。しかし、吉次峠部隊の被害は甚大で、駒井大尉をはじめ、この攻撃で多くの命が失われた。

官軍・薩軍の田原坂での攻防は17日間続いた。植木方面の敗走によって、田原坂の重厚な防衛線は破られた。その後、官軍は田原坂を下って植木方面までの侵攻を試みたが、途中で薩軍の攻撃にあって中止となった。田原坂の戦いでは薩軍は敗北に終わったが、21日には早くも有明海・吉次峠・植木・隈府を結ぶ線に防衛陣地を築きあげた。そうすることによって官軍の熊本への道を遮断し、攻撃を遅らせようとした。

3月1日に始まった田原をめぐる戦い(田原坂・吉次峠)は、この戦争の分水嶺になった激戦で、戦争から100年以上たった現在でも現地では当時の銃弾が田畑や斜面からしばしば発見されている。薩軍では副司令格であった一番大隊指揮長篠原国幹をはじめ、勇猛の士が次々と戦死した。官軍も3月20日の戦死者だけで495名にのぼった。田原坂の激戦は官軍の小隊長30名のうち11名が命を落としたことからも窺うことができる。こうして多大な戦死者を出しながらも、官軍は田原坂の戦いで薩軍を圧倒し、着実に熊本鎮台救援の第一歩を踏み出した。


[編集] 植木・木留の戦い
3月23日に官軍は植木・木留を攻撃し、一進一退の陣地戦に突入した。3月24日にも官軍は再び木留を攻撃し、3月25日には植木に柵塁を設け、攻撃の主力を木留に移した。3月30日、官軍主力は三ノ岳の熊本隊を攻撃し、4月1日には半高山、吉次峠を占領した。4月2日、官軍は木留をも占領し、薩軍は辺田野に後退し、辺田野・木留の集落は炎上した。4月5日には官軍本営にて軍議が開かれた。4月8日、辺田野方面は激戦となり、官軍は萩迫の柿木台場を占領した。4月12日に薩軍は最後の反撃をしたが、4月15日、植木・木留・熊本方面より撤退し、城南方面へ退いた。これを追って官軍は大進撃を開始した。

鳥巣方面

— posted by サイト管理者 at 05:43 pm  

全国での布教が自由になると考えていた

[編集] 京都から山口へ
1550年11月、山口に着いた一行は、なんとか領主の大内義隆に謁見できることになった。が、男色を罪とするキリスト教の教えに大内が激怒したために山口を離れ、岩国から海路堺へと赴いた。堺では幸運にも豪商の日比屋了珪の知遇を得ることができた。了珪の助けによって1551年1月、一行は念願の京に到着した。京都では了珪の紹介で小西隆佐の歓待を受けた。日本国内での活動は了珪の邸宅の一部を借りて行われた。その場所が現在では「ザビエル公園」(大阪府堺市)として市民に開放されており、彼の宣教活動を顕彰する碑が建てられている。なお、ザビエル公園より南側に位置する大小路筋は、堺が自治都市として栄えた時代のメインストリートで、近くには小西隆佐・小西行長の生家跡、千利休の屋敷跡、武野紹鴎の邸宅跡と伝えられる場所が存在する(石碑のみ)。

ザビエルは京で「日本国王」に謁見し、布教の許可を得れば全国での布教が自由になると考えていたが、京は戦乱で荒れ果て、足利幕府の権威は失墜しており、後奈良天皇が居住する御所も荒れ放題であった。ザビエルは比叡山で僧侶たちと論戦をしてみたかったが、比叡山から拒絶された。天皇への拝謁も献上品がなければかなわないことを知ってあきらめたザビエルは、滞在わずか11日で失意のうちに京都を去ることになった。

1551年3月に平戸に戻ると、残していた贈り物用の品々を持って山口へ向かい、再び大内義隆に拝謁した。それまでの経験で、貴人と会見する時はどこでも外見が重視されることを知っていたザビエルは一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上した。義隆は喜んで布教の許可を与え、ザビエルたちのために住居まで用意した。山口で布教しているとき、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く目の不自由な琵琶法師がいた。彼はキリスト教の教えに感動し、ザビエルに従った。彼が後にイエズス会の強力な宣教師となるロレンソ了斎である。


[編集] 再びインドへ・ザビエルの最期

ゴアのボン・ジェズ教会内・ザビエルの遺体が安置された棺1551年9月、ポルトガル船が豊後に入港したという話を聞いて、ザビエルは豊後に向かった。同地で22歳の青年領主大友義鎮(後の大友宗麟)に謁見している。日本滞在も2年になり、ザビエルはインドからの情報がないのが気になっていたため、ここで一度インドに戻ることを決意し、トーレスらを残して出発、中国の上川島を経てインドに向かった。このとき、ザビエルは日本人青年4人を選んで同行させた。それが鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオの4人である。

参照します。

— posted by サイト管理者 at 06:58 pm  

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